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ひよこ売りについてゆきたいあたたかい こしのゆみこ
2009年4月に第一句集『コイツァンの猫』が出るずっと以前から、この句はよく知られた代表句のひとつ。こしのさんの句柄について「癒し」という語を口にした句友がいたが、なるほど、気持ちがほぐれる。この句はその典型。近年の流行語としての「癒し」に結びつける気はないが、なんだか、すべてが快方に向かうような効果がたしかにある。
だが、それだけが、こしのさんの俳句の魅力ではない。というか、それはほんの一部の「付加価値」に過ぎない。
結論を先に持ち越してもしかたがない。こしのさんの俳句の最大の魅力は「ヘン」にある。
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こしのさんの句は「ライトヴァース」と呼ばれていた時期があるという。こちらについても、なるほどそうかと思う。
海程入門当初から、私の俳句はライトバースといういわれ方をされた。私はこの言葉のノー天気なニュアンスがきらいだった。句会で「稚拙」ともいわれたがこの方が納得がいく。実際私は稚拙ながら、思いこみの激しい「せつない」俳句を作っていた。作りながら、目が熱くなるのである。
こしのゆみこ「越野商店の幻想俳句から」
http://hwopt.gate01.com/necomachi/gensou.htm
ライトヴァースが蔑称とは思わないが、本人が「ライト」に、ではなく、重く、「思いこみの激しい「せつない」俳句」と自認するなら、ライトは不本意だろう。だが、ここがかんじんなのだが、こしのさんの言うほどの「思いこみ」は、俳句に現れていないし、重くも激しくもない。
昼寝する父に睫のありにけり
夏寒き父仁丹のひかりのみこむ
夏座敷父はともだちがいない
「父モノ」は数は多くないが、この句集で重要な位置を占めているように思える。前掲の短文「越野商店の幻想俳句から」を読めば、こしのさん本人のこころの中に占める重要性も理解できる。これらの父モノは、たしかにせつないが、重くはない。軽い。軽さの良さがある。
昼寝する父に睫のありにけり
ふわふわと羽になって飛んでいってしまいそうな軽さ。この軽さは、泣ける。
「仁丹のひかり」はやや技巧的、「ともだちがいない」の直截さは「せつなさ」に向かうつもりが諧謔へと道を迷ってしまうタイプの句だ。
で、このあたりで、句集『コイツァンの猫』から気ままに9句。
海見えてまだからっぽの白い蚊帳
主人公みたいな名前競泳す
夏の川ゴールデンタイムちらちらす
トースターテッペンカケタカ麺麭跳ンダ
つんのめる時鷲づかむ虹のしっぽ
半身が蝉になるほど泣いており
寝返りを打つたび見える滝の筋
籐椅子にひっかけておく青い川
朝顔の顔でふりむくブルドッグ
さて、話はどこまで行ったっけ? ライトをめざさず、せつなさをめざしたはずのこしのさんだが、その句は、意図とは別のところにたどり着いているとしか思えない。このあたりが大いに「ヘン」なのだ。そしてこれはもちろん稀有な「ヘン」さなのだ。水道工事の人が水道を引いた。そのつもりが、蛇口を捻ると、水じゃないものが出てくる。そんな感じ。
こしんさんとはたびたびお会いし、「リアルこしの」を存じ上げているので、いまここでさかんに言っている「ヘン」は、俳句作者のこしのさんのことであって、リアルの話ではないとことわっておかねばならないが、実際のこしのさんも、ヘンじゃなくはない。変わり者と言われたことがあると思う。だって、変わっているもの。
それは悪いことではない。稀有で高貴な「ヘン」と言ってもいいだろう。簡単に言えば、常人とアタマの回路が違う。常人の水道管とは違うのだ。
しあわせの順番が来てバナナ剥く
青年の時計大きい盆踊
えんぴつで描く雨つぶはひぐらし
涙目にとんぼじゃぶじゃぶふってくる
姉家族白鳥家族食べてばかり
随所に、奇矯ではない不思議さがある。奇矯は操作的・意図的なものだから、俗に堕しやすい。こしんさんの「ヘン」は、俗とは離れ、典雅な「ヘン」ぶりを発揮する。かんたんに言えば、「天然」なのだ。
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俳句に対して「ライトヴァース」との語を用いる場合、定型からの(程度差こそあれ)逸脱、口語、季語その他俳句的伝統からの自由(放蕩)などを指すのだろう。
そのうえでライトヴァースの成功と失敗を考えてみると、俳句の定型・定石の恩恵を大きくは受けないということだ。ふつうの人間、つまり凡人は、好きなことをしゃべらせると、とことんつまらないことを言い出す(この駄文がまさしくそうなわけで)。俳句(定型・季語その他)は、その「防止」である。
つまらないこと(というのは些事の意味ではなく、掛け値なしのつまらなさ、退屈で凡庸なこと)を口にしないために、定型(短さ・五七五)その他があるということだ。
だから、凡人がライトヴァース的俳句をやると、とことんつまらないものしか出てこない。定型や俳句的決まり事という枷を取り外したら、ダメダメにくだらないことを自由に語りはじめるわけだから、これは自明だ。
ところが、凡人ではない人、例えばこしのさんのような「ヘン」な回路を持った人は、その限りではない。それをライトヴァースと呼ぼうが、「せつない俳句」と(友蔵俳句ばりに)呼ぼうが、どっちにせよ、なんだかヘンテコリンに素晴らしいもの生まれてくる可能性がある。
つまり、凡人を好き勝手に振る舞わせても、ロクな芸は見せないから、俳句形式(定型)という枠を与えて、その範囲でモノを言わせておく。一方、変人は、自由に放し飼いにするほうが、おもしろいことをしてみせる。比喩で言えば、そういうことになる。
桃咲いてぼおんぼおんと人眠る
びしょぬれの桜でありし日も逢いぬ
東階段ヨナヒム君卒業の手を振る
ふつう「ヨナヒム君」なんて出てきたら、あざとさが目に付き、しらけてしまうのだが、なぜだろう? こしのゆみこさんは、やはり天然の、稀有で不思議な生き物なのだと思う。
この不思議な生き物の発する俳句が、私たち凡人に不思議と驚きを与え、世に暮らす普通人の精神の疲労や病症をやわらげ、精神の快方へと向かわせるのである。
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