2008/09/21

あたりまえのことを愛おしむ

『俳句研究』2007年9月号より転載


雪我狂流さんがこのところ要あらば用いる履歴には、こうある。

1948年、日本に生まれる。
1964年、ビートルズに狂う。
1967年、ゴダールの「気狂いピエロ」に狂う。
1977年、パンクロックに狂う。
1991年、俳句に出会う。

私が狂流さんと知り合ったのは「パンクロックに狂う」のすこし後。狂流さんが俳句を始めるのは、そのずっと先。私が俳句を始めるのは、そのまたずっと先のことだ。

狂流さんには、よく遊んでもらった。いい映画をたくさん観ていて、そのときどきのいちばんオシャレな音楽を知っている狂流さんは、私にとって先生のような存在だった。といっても「先生然」としていたわけではない。子どもは大事なことは学校の外で教わる。おとなになってもそれは同じで、世間で「先生」と呼ばれる人たちから学べることは少ない。

狂流さんが俳句を始めたと聞いたとき、どんなことを思ったのか、あまり記憶にない。その頃は俳句への興味のカケラもなかったからだろう。ただ、狂流さんがカバンから取り出した結社誌は、いつも持ち歩いてページをめくっていたと見え、ボロボロのヨレヨレだった。そのことだけは憶えている。

やがて私も、俳句を始めた。狂流さんと句座を共にする機会も得たて、狂流さんの句に魅了された。私だけではなく、句座の誰もが狂流さんの句を愛した。

  開けるとははづれることね春障子  狂流(以下同)
  馬糞紙のざらざらざらがあたたかい
  水の出ぬシャワーの穴を見てをりぬ

以上は最初の句集『御陰様』より。私家版50部限定だから、手にすることのできた人は幸運だ。こんなにキュートですてきな句集を私は見たことがない。

  まあきれいなんとまづそな熱帯魚
  仏壇に西瓜一個は多すぎる
  見晴らしが良すぎて寒くなりにけり
  口中の葱より葱の飛び出しぬ

引用にはクセや好みが出る。ここに引く句が狂流さんの魅力のすべてではないことをご承知置きいただいて、第二句集『弁慶の泣き所』より以下に引く。

  雛の家でかけるときは鍵かけて
  冷蔵庫しめてプリンを揺らしけり
  打上花火に五重の塔がじやま

やわらかく気持ちがいい。嫌みのない機知もすこし。ちょっと意地悪な視線もすこし。

「俳句なんて、つまんなくていいの」と狂流さんはよく言う。刺激的なこと、たいそうなことを読み込もうとしない。世の中の「つまんないもの」を指で軽くつまむように詠むのが俳句、というわけだ。ゴダールやパンクロックの興奮とは別のところにある俳句の風趣。俳句のいちばん美味しいところを私たちに見せてくれるのが、狂流さんの俳句である。

冒頭に挙げた狂流さんの履歴の最終項「1991年、俳句に出会う」には別ヴァージョンがある。曰く、「俳句に出会い、軌道修正する」……。気も狂わんばかりの刺激的な経験を経てその後、狂流さんはこの世に復帰した。

  幸福だこんなに汗が出るなんて
  三月や子供はみんな象が好き
  湖は平らなところボート浮く

世界があたりまえのようにある、そのことをこそ愛おしむ。狂流さんの句が、そして俳句というものが私たちに教えてくれるのは、気持ちよく幸せに暮らしていくための指針なのだろう。


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