2016/07/24

■有名句と類似の句が出てきたとき


選者の顔ぶれは存じ上げませんが、これは、もう、全員辞任レベル。

ただし、ややこしい問題は残る。

もし、《かくれんぼ四つ数えて春が来る》なら、どうでしょう? 賞うんぬんは別にして、寺山修司句の「もじり」と解せないこともない(私は解する。良いもじり、巧いもじりかどうかは別にして)。

なお…


(ここで話がすこし変わるのですが)

…生駒大祐氏のこんな試みがあります。

≫俳句ガイドライン板 http://desk-w.bbs.fc2.com/

生駒氏による広報・ガイダンスはこちら2本。

http://weekly-haiku.blogspot.jp/2016/07/blog-post_44.html
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2016/07/blog-post_68.html

俳句におけるパターンの相同、ネタの類似(反復性)、もじり・パロディー・オマージュ等々はすべて別のことと考える私としては、これ読んでも、まだすっきりしないけど。

とくに、次の部分。

それによって俳句の持つ法則性のようなものが炙り出され、さらに僕の直感が正しければ、ある閾値以上の面白さ(そこに関しても別途議論が必要ですが)を持った句群の全てを有限の型で分類できるはずです。

ここで、ひとつ思うのは、

法則性や型は、過去。面白さは、未来。

ということでしょうか。

そして、もうひとつ思うのは、

生駒氏の分類した「句群の全て」の外にある句を、面白がる・快楽する用意が、私にはある。

ということです。


過去を知ることは大事ですが、現在生まれる、明日生まれる面白さに機敏に反応できる運動神経のほうが、既存の分類や評価よりよほど大事(と私は思っている)。そのほうが、愉しく暮らせます。

(ごめん。自分が愉しいかどうか第一主義で、ごめん)

(過去の俳句について私は、人並みくらいに知っているつもりだし、人並み以上に尊ぶ。為念)


それにしても、「ある閾値以上の面白さ」とか「良い俳句」(クプラスへ流れ弾)とか、選別や評価に気持ちが向くのは、いったいどうしたことでしょう。

評価と批評は別物ですよ。

批評とは、寓話的にいえば、《あ》と一音の「俳句」があったとして、それを、そのおもしろさを、あるいはそのダメさを語るものでしょう?


ちなみに、俳句において「型」を重視する気持ちや趣味嗜好はわかるんだけど、結果として、その脈絡にある句は、「俳句想望俳句」。マニアック(固有名詞的には「イコマニアック」)で面白い面もあるんだけれど、ちょっと見方を変えると、小賢しくて、退屈、かなあ。で、その「退屈」に価値を見いだしたりもして、それがまた小賢しいのですよ。


ともかく、いろいろ展開(袋小路も含め)のあるテーマではあります。

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