偶然だろうけれど。龍大俳句賞は去年も類句があった。
〈かくれんぼ三つ数えて春が来る〉(山本智也)
〈かくれんぼ三つかぞえて冬となる〉(寺山修司)
先行句があるのは悪いことでもなんでもない。それを選ぶ選者側がどうなの、と当時高校生で同じ賞を受けた自分はもやもやしていた。
— ほりしたかける (@fly_holly) 2015, 2月 17
選者の顔ぶれは存じ上げませんが、これは、もう、全員辞任レベル。
ただし、ややこしい問題は残る。
もし、《かくれんぼ四つ数えて春が来る》なら、どうでしょう? 賞うんぬんは別にして、寺山修司句の「もじり」と解せないこともない(私は解する。良いもじり、巧いもじりかどうかは別にして)。
なお…
(ここで話がすこし変わるのですが)
…生駒大祐氏のこんな試みがあります。
≫俳句ガイドライン板 http://desk-w.bbs.fc2.com/
生駒氏による広報・ガイダンスはこちら2本。
≫http://weekly-haiku.blogspot.jp/2016/07/blog-post_44.html
≫http://weekly-haiku.blogspot.jp/2016/07/blog-post_68.html
俳句におけるパターンの相同、ネタの類似(反復性)、もじり・パロディー・オマージュ等々はすべて別のことと考える私としては、これ読んでも、まだすっきりしないけど。
とくに、次の部分。
それによって俳句の持つ法則性のようなものが炙り出され、さらに僕の直感が正しければ、ある閾値以上の面白さ(そこに関しても別途議論が必要ですが)を持った句群の全てを有限の型で分類できるはずです。
ここで、ひとつ思うのは、
法則性や型は、過去。面白さは、未来。
ということでしょうか。
そして、もうひとつ思うのは、
生駒氏の分類した「句群の全て」の外にある句を、面白がる・快楽する用意が、私にはある。
ということです。
過去を知ることは大事ですが、現在生まれる、明日生まれる面白さに機敏に反応できる運動神経のほうが、既存の分類や評価よりよほど大事(と私は思っている)。そのほうが、愉しく暮らせます。
(ごめん。自分が愉しいかどうか第一主義で、ごめん)
(過去の俳句について私は、人並みくらいに知っているつもりだし、人並み以上に尊ぶ。為念)
それにしても、「ある閾値以上の面白さ」とか「良い俳句」(クプラスへ流れ弾)とか、選別や評価に気持ちが向くのは、いったいどうしたことでしょう。
評価と批評は別物ですよ。
批評とは、寓話的にいえば、《あ》と一音の「俳句」があったとして、それを、そのおもしろさを、あるいはそのダメさを語るものでしょう?
ちなみに、俳句において「型」を重視する気持ちや趣味嗜好はわかるんだけど、結果として、その脈絡にある句は、「俳句想望俳句」。マニアック(固有名詞的には「イコマニアック」)で面白い面もあるんだけれど、ちょっと見方を変えると、小賢しくて、退屈、かなあ。で、その「退屈」に価値を見いだしたりもして、それがまた小賢しいのですよ。
ともかく、いろいろ展開(袋小路も含め)のあるテーマではあります。
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