2016/08/03

■学校モノ俳句 岡野泰輔『なめらかな世界の肉』の3句

オトナであるところの、それも(例えば私を含めた)老人と言っていいほどのオトナが、学校の出来事を俳句に詠むのは(つまり、そうした「思い出俳句」ってのは)いかがなものだろう、とつねづね思っていたのですが、

背の高くとてもきれいな子が落第  岡野泰輔

種痘痕吉井明子は転校生  同

学校が早く終つて竹の秋  同

こんな3句を見てしまうと、何を詠んで悪いとか良いとか、そんなことを考える気が失せてしまった。

それに、最近、作中行為者の「空虚」に思いが到った。簡単にいえば、「誰が」と明示していないかぎり、それは誰でもいい。作中行為者=作者=社会的人格を持った作者、といった俳句の(ゆるやかな)約束事なんて、どうてもよくなったせいもあって、学校モノも、誰が詠もうが「お話」のように自然に読めるように、私は、なりつつある。

それにしても、きれいな子の落第やら、吉井明子やら、とんでもないことが句になり、それがこんなに面白いとは。

(もしかしたら、何十年もの時間が経過したからこそ作り出すことのできるたぐいのおもしろさかもしれない。例えば、学校モノの有名句、高校生の作者がつくった《起立礼着席青葉風過ぎた・神野紗希》との趣の違いを思えば、その年齢なりの学校モノ、というものがあるのだろう。それは同時に、年嵩のいった人間が、「起立礼~」的な句をつくっていてはダメということでもあろう)


ところで種痘痕は、失われつつある伝統らしい。天然痘が日本でほぼ絶滅したから(間違ってたら教えてね)。女の子のむき出しの二の腕にある種痘痕が、私(たち)を強烈に惹きつけた時代は、もうとっくの昔に終わったのですね。





0 件のコメント: